私の考える即興演奏は
1. 作曲とは異なり、音の綴りは言葉である。
2. 演奏者の音楽歴などによって、スタイルが緩やかに変化し続けていく。(*)
3. こころの赴くままに演奏することで、その人の個性を顕す。
4. 演奏者と聴き手の空気のやりとりであり、演奏者から聴き手へ、聴き手から演奏者へと自由に行き来するこころのやりとりである。
(*) 私の場合、以前は「癒しの音楽」(緩やかなテンポが多い、クラシック音楽風の転調や和声)だったが、さまざまな影響により変化している(ジャズ風の和音、ピアノを打楽器的に扱うなどの要素も加わる)。
(以上、演奏発表で会場配布メモより)
【報告】
私のこれまでの即興の経緯(0)と、上の1,2,3,4(順番は入れ替え)について、詳しく書くと次のようになります。
0. 私のこれまでの即興の経緯
幼い頃、私は鍵盤楽器を鳴らして遊ぶのが好きでした。時間を忘れていろんな音を出して愉しんでいたそうです。ピアノを習う前から、即興演奏はやっていた・・ということになるのでしょうか。
幼かった私は、いろんな音を弾き分けることが楽しくてたまらず、目の前に絵本を置いたり、写真を置いたりしながら演奏を愉しんでいました。
当時は自分で「おばけの音」と思っていましたので・・・フリースタイルな音だったかもしれません。
私が、鍵盤でずっと遊んでいる様子を見ていた両親は、私をピアノの先生のところに連れていきました。そこで初めて「楽譜」というものに出会いました。正確に読めないと、弾けないと「まる」をもらえない。楽譜との格闘が始まりました。
私が好きなように、即興演奏をしていると、母がピアノのところに来て 「遊んでばかりいないで、ちゃんと練習しなさい」と言います。それが何度となく繰り返され、いつしか私はピアノで「遊ぶ」ことを封印しました。
音楽大学を受験し、クラシックピアノを勉強し、素晴らしいのはその音で、私の弾く音は、人様にお聞かせするようなものではない・・・と思っていた時期は長かったです。本当はそれは違っていました。
1.作曲とは異なり、音の綴りは言葉である。
即興演奏は音のお喋り。そして作曲された音楽は、書き記された小説のようなもの。音のお喋りと、小説とは、根本的に違うものです。
楽譜は、読んで「味わうための」ものであり、読ま「なければならない」ものではなかった。でも、そのことに気がついたのは、ずっとずっと先のことでした。頭ではもちろん、わかっていましたが、感覚的に腑に落ちる感じを持ったのは、私が即興で演奏活動をするようになってからのことだったかもしれませんし、作曲や編曲をするようになってからのことだったかもしれません。
3. こころの赴くままに演奏することで、その人の個性を顕す。
私は、即興で演奏をすると、心が解放されます。「間違えないように」という呪縛から解き放たれ、こころの中に想うことを、自由に音にすることができるから。
4. 演奏者と聴き手の空気のやりとりであり、演奏者から聴き手へ、聴き手から演奏者へと自由に行き来するこころのやりとりである。
演奏を聴く方がいるとき、その方の耳を通して私の想いが伝わり、聴いていただいている人の想いが私に届いて、また音になっていきます。
その循環がとても心地よいのです。そこにしかない空間を、音で創っている実感があります。そしてそれは、聴き手と演奏者の共同作業なのです。
2. 演奏者の音楽歴などによって、スタイルが緩やかに変化し続けていく。
演奏活動をするようになってから、いろいろな方とご一緒したりいろいろな音楽に出会ってきました。そういった体験や音楽経験も、きっと音として私の中に入ってくることでしょう。
音のお喋りは、少しづつ自由に変化していくでしょう。生きていく間に人が変化していくように。
即興演奏は、そういった意味で、人生そのものとも似ているかもしれません。
●言葉での解説と演奏の関係
今回の演奏発表は、こういった言葉を解説しながら、即興演奏をしていく、という内容のものでした。
ただ、両者の関係については、自分ではどうも言葉にしにくいです。
それは、きっと、即興演奏はそのときの自分自身であると思っているからだと思います。
「音」に客観的に向き合っているという即興であれば、向き合い方や演奏する音についても、詳しく解説できるのでしょうが、自分自身のことを、自分で客観的に話すことのは難しいことだと思うのです。
私は演奏するときに、いろいろな感覚を開いて聴き手の方たちを感じ取ろうとしています。自分なりのファンタジー、あるいは感じていらっしゃることに同化する感覚を探すのです。
それが演奏に表されているかどうか・・・それは、お聴きくださる方に、私のほうからお尋ねしてみたいことでもあります。